「与える育児」と「奪わない育児」の違いってなんだろう

育児をするって、迷いの連続。

「他の子が持っている知育おもちゃうちの子にも買ったほうがいいかな」

とか

「周りのお母さんみたいにうちはちゃんと言葉のシャワー浴びせられてないかも」

とか。

今自分が親として子どもに与えているものがちゃんと十分なのかが気になって気になって

少しでも自分の子が同じ月齢の子と比べて発達が遅いと、「もっとこうしてあげたほうがよかったかも」なんて思ったりしてしまう。

だから、子どもに必要そうな物を与えよう、与えようとしてしまう。

でもついこの間、インスタであるお母さんが「奪わない育児を目指しています」という投稿をしていた。

確かに、与える以前に奪わないのは大事だ。

例えば、学校に行かせずに家でゲームばかりさせていては、子どもが学習する機会を奪っていることになる。

モンテッソーリの考え方は特に「奪わない」ことを意識していて、子どもが一人でやりたいという意思を尊重して、大人が必要な環境を整えることで、子どもの意欲を奪わないことになる。

でも、「奪わない」ことと「与える」ことの違いって、よくよく考えるととっても曖昧なんじゃないかと思えてくる。

例として、先日読んだ著書を取り上げてみようと思う。

塾に行かず日本の公立の学校に通いながらも現役でハーバード大に合格した廣津留すみれさんのお母さんが書いた著書、「世界基準の子供を育てる成功する家庭教育最強の教科書」

この著者は、「グローバル時代に貢献できる子どもを育てる」ことを目標に、結構ぶっ飛んだ育児をしていたという。

例えば、1歳から英単語をひたすら暗記させ、1週間に100単語暗記させるとか、1歳から漢字をやらせるとか、もう普通の家庭では考えられないような家庭教育がされている。

いわゆる、英才教育。

この本に書かれている育児は、一見「与える育児」をやっているように見える。

学校教育の内容よりも早い段階で、学校教育より高度なことを、あえてやらせているから。

でも、この著者は、子どもだから英語は早いとか、漢字が早いとか言っているのは大人が勝手に考えたことであって、子どもはたくさんのことを吸収する力を持っていると考えているのだ。

そう考えると、子どもが吸収できる力を「奪わない」育児をしているとも言える。

そんなことを考えると、「与える」ことと「奪わない」ことの違いがよくわからなくなってくる。

知育おもちゃを買い与えることは、与える育児?必要な発達を促していると思えば、奪わない育児?

おうち英語をすることは、日本にいながら英語をあえてやっているから与える育児?でも本来、英語が飛び交う環境にいれば誰でも話せるはずの英語をやっていると考えれば奪わない育児?

逆におうち英語をしないことは、与えない育児?奪う育児?

もう、これは哲学(笑)

極端なことを言ってしまえば、赤ちゃんはこれからどんなことでもできる可能性があるんだから、何かをやらないことは全て奪う育児になってしまう。(サッカー選手になれる可能性があるのにサッカーをやらないのは機会を奪っている!でもサッカーを選んで野球をやらないのは、野球選手になる可能性を奪っている!的な)

ん〜〜〜〜なんだかわからなくなってきたぞ。

育児をするときに、「何か与えなきゃ」とか「こどもの可能性を奪わないようにしなくちゃ」とか考えている割には、どこまで与えるべきなのか、何を奪ってはいけないのか、その境界線がよくわかっていないのだ。

子どもの為になることを与えたい、子どもの可能性を奪いたくない。でもどこまで与えればいいかわからないし、子どもの可能性をどこまで想定するべきなのかもわからない。

わからないから、迷ってしまうんだなと。

わからないけれど、でもいくつか結論は出た。

まず1つ目は

「何かを与えたいと思ったとき、それによって何か他のものが奪われないかを考える。」

まず、与えたいことの基準は親に依存してしまうのは仕方がないと思う。

親が音楽ができる子になってほしいと思うなら、音楽ができる環境を用意できるけれど、音楽のことなんて全く興味がなかったらそもそも与えようとは思わないから。

でも、親が子どもに与えたいものを与えたとき、その代償が大きかったらそれはよく考え直さないといけない。

サッカー選手にさせたいから放課後や休日サッカーの教室ばかり通わせていたら、友達と遊ぶ何気ない時間とかを奪ってしまうことになる。

まあ、当たり前っちゃ当たり前だね。

でも、さっきの例のように極端な場合だったらわかりやすいけれど、実際育児をしていると何かを「与える」ことが何かを「奪うこと」になっているかいないか判断に迷うことも多い。

例えば、おうち英語でたくさん英語に幼少期から触れさせることで、日本語を吸収する時間を奪ってしまうことになるかもしれない。でも、本には英語をやらせても日本語の獲得には問題ないと書いてあるものもあるし・・・

とか

ある知育おもちゃ(1個の値段結構するんだよね・・・)は発達にいいとか言うけれど、本当は必要なものではなくて、そのお金を将来の別の機会に使ったほうが有意義かもしれない・・・

とか。

結局良かれと思って与えたものが、奪うまでは行かなくとも、親の自己満足に終わってしまったりすることもあると考えると、本当に与えるべきものってなんだろうってわからなくなってくるんだよね。

そして2つ目は、

「親が知らないことは与えられない。親の無知は子どもから機会を奪っていることになるかもしれない。」

これはすごく最近感じていること。

初めての育児で知らないことだらけなのは仕方ないけれど、もともと読書をする習慣がなかった私は、最初の1年「なんとかなるべ〜!」の精神で育児情報なんて集めようと思わなかった。(まあ実際なんとかなった。笑)

でも最近いくつかの育児書を読む中で、全ての内容を取り入れることはできないけれど、たくさんの育児の方法の中から自分に合うやり方を「選択する」ってすごく大切だなって思うようになった。

他のやり方知らないからこの方法でやるのと、他をたくさん知っている中でいくつかの方法を選ぶのとでは雲泥の差だな、と。

情報を詰め込みすぎて頭でっかちになるのは良くないから、情報収集はほどほどにしときたいところだけど、ある程度選択肢を持った中で、ベターなやり方を選ぶほうがいいに決まっているし、親も気持ちに余裕が出るんじゃないかなと思う。

今回は、なんだか真面目すぎることをダラダラと書いてしまったな。

たまにはそう言うのもアリってことで。

それでは。

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